隠レ蓑

お山の日記と、日々の懊悩

白馬岳

 

32年前に、小学2年、8歳だった僕は白馬岳に登った。

白馬山頂から見たご来光のことだけ、強烈な印象とともに覚えている。日の出前の、暗く、寒々しい空気のなか、どこまでも広がる荒涼とした雲海。一点の暁光が小さく輝き出すと、あたりの人々の歓声と拍手とともに、鋭いオレンジの光が地平線に広がり、暗い雲海と空を瞬く間に照らしていった・・・。その美しさ、神々しさに、子どもながらも僕は圧倒され、どうしようもなく心が揺さぶられた。

しかし子どもの記憶は実にあやふやだ。父に言わせれば、ご来光を見たのは白馬岳から200mほど下った白馬岳頂上宿舎付近の鞍部からで、山頂にはその後向かったらしい。なんとも僕の記憶はあやふやだけど、暗い雲海を照らしたご来光のイメージだけはやけに鮮明に脳裏に焼き付いていて、まぁそれも確たる記憶とは言い難いわけだが、とにかく今までの人生で見たご来光で断トツの一番なのだ。

32年前の計画は1泊2日で、初日は猿倉から大雪渓を経て白馬岳頂上宿舎泊、2日目に白馬・杓子・白馬鑓の三山を縦走し猿倉に下山、という小学2年と4年の子どもを連れた家族4人の登山としては結構ハードで内容盛りだくさんなものだった。

もっとも、わずかながら記憶に残っているのはご来光のことだけである。

そりゃそうだ。平日は仕事で夜遅く帰ってくる父には時間がなく、また父の性格的なところもあって、いつも準備はギリギリで、週末どこの山に登るのか母にすらきちんと告げずに土曜の朝に出発するのが常だった。そういう朝は皆不機嫌で、山に連れていかれるのは正直言って憂鬱だった。このときも白馬に行くのだって、父以外よく分からずにいたに違いなかった。

そんなわけで記憶には客観的情報に乏しく、きわめて断片的でつながりを欠いている。覚えていると思った記憶もなにか美化・脚色されていたり、あるいはそもそも場所や時期を勘違いをしていたりと、あやふやなものになっている。この白馬のご来光のように強烈なイメージとして刻まれたいくつかの風景を除き、子どものときに登った数多くの山の記憶は自分自身に定着することなく、成長とともに消えてなくなっていったのだった。

それは僕が子どもだったから、という理由だけでなく、今登っている山がどんな山なのかよく知らなかったし、初めから興味を抱くこともあまりなかったからなのだ。

 

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愛車を停めた猿倉から父と歩き出した。70歳を越えたとはいえ、長年山歩きをしてきた父の足腰は頑張っていた。昔と比べたらもはや大雪渓とは呼べない規模の雪渓も、えっちらおっちら登りなんとかクリアした。しかし標高差1600mを一気に上げるのはさすがにきつい。雪渓が終わり沢沿いの急登で「踏ん張りがきかねー」と言って、父が二度目に転びそうになったとき、何回目かの休憩をとり、荷物はダブルザックで全部僕が担ぐことにした。父の荷物は防寒具と水だけだったが、ひと昔前にプレゼントした35Lのトレッキングザック自体が体感で2kgと異様に重かったのだ。 

猿倉から山頂直下の白馬岳山荘まで昭文社マップのコースタイムで5時間半らしいが、7時間半ほどかけて到着した。思ったよりは早かった。

天気は崩れ始めていてガスガスで風が出てきた。こんななか山頂へ行っても360度白いガスしか見えないだろう。夕刻遅くから雨になる予報なのだ。32年前と違って今回は1泊2日ではなくて2泊3日で、予定としては同じ白馬三山縦走ではあったが、最も重要なのは白馬岳の山頂からパノラマの景色を一緒に眺めることだった。翌日の昼前後にガスがとれそうな時間帯があるので、それまで停滞を決め込んだ。

夜は大量に担ぎ上げた食料で宴会である。普段の山行では食料は重量とカロリーしか考えていないが、今回ばかりは酒飲みの父を喜ばせたくて、下界で食べる以上に多品目を用意したのだ。メニューは豚肉と白菜・ネギ・ニラの鍋、キンピラごぼう、ずわいガニ缶のバター煮、きゅうりとみょうがの和え物、生トマト、ザーサイ、スペインサラミ、チーズ、締めに鍋の汁に生卵を入れて雑炊・・・。

日曜日だったので部屋は父と僕の2人で実質個室であり、外は風雨のわりに気温も全然寒くなく、実に快適な夜を過ごした。

翌朝、まだ小雨が舞うなか出発していく登山者たちを尻目に、受付の広間で携帯を充電しながらテレビを見たり、メニューがショボい喫茶でホットミルクを飲んだりして過ごした。

しばらくして雨が止んでもガスがなかなかとれず、まだ山頂へ出発するにはイマイチである。いい加減小屋にも居づらくなってきて、この白馬岳山荘から少し標高を下げたところにある白馬岳頂上宿舎にとりあえず移動することにした。(32年前に泊まった山小屋にまた泊まろう、と白馬岳山荘を予約したのだが、父の記憶もあいまいで、実際に泊まったのが白馬岳頂上宿舎だったことに登山道で気づいたのだ)

受付を済ませストーブのきいた談話室から空を見やると、ガスの切れ目にちょくちょく青空が見え天気はあきらかに良化してきていた。昼ごはんにサンマの蒲焼丼と味噌汁、それにデザートで羊羹とみかんを食べて、12時半ごろついに山頂へ向け出発した。

13時40分、32年ぶりに白馬岳の山頂を踏んだ。

 

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白馬の山頂ってこんなとこだったっけ?と父と言い合った。お互い忘れてしまっていて、笑いあった。

2人でハイタッチをして記念写真を撮ったりしながらも、2度目の山頂という事実がなかなか判然とせず、思い出せない夢のなかにいるような、どこか茫洋とした時間を過ごした。いくら待っても黒部側にかかるガスはキレイにはとれず、ときおり清水岳への稜線が部分的に見え隠れするだけだった。風が吹いていた。山頂に滞在した30分ほどで風はやがて少しづつ強くなり、より白く濃く重そうなガスが運ばれてきて、再び何も見えなくなっていった。

下山しながら、ふと、ご来光が見たかったな、と思った。

32年前のご来光と比較してみたかった。

正直のところ、強烈な印象として刻まれたそのご来光はあやふやな記憶に過ぎず、長い年月とともに過度に美化・脚色された風景であって、実際に見たままのものではない、ということは分かっている。しかしながら、その記憶は8歳の子どもがその後成長していった過程で気づかぬうちに抽象化され、あるいは純化され、いまやご来光の概念そのものになっていることに気づく。つまり、僕は32年前のご来光のあとにも沢山のご来光を見てきたわけだが、「白馬で見たご来光のほうがすごかった」と、実際に見たそれ以後のご来光を否定する経験を繰り返し重ねることで、自分のなかのあやふやな記憶としてのご来光像はむしろ具体性や不可謬性を帯びた揺るぎのないイメージとなり、そしてそれは常に白馬で見たご来光として再生産されていったのだった。

そう考えると、僕のご来光の感動は32年前、8歳のときで止まったままだ。馬鹿みたいだけど、その後ご来光を見るたび「キレイだけど、白馬で昔見たやつをもう一回見たいなぁ」と本気で思い続けてきた。圧倒的に美しく、神々しく、そして頭のなかにしか存在していないものなのだった。

子どものときの山の記憶が自然と消えていった一方で、このように何年経ってもその強烈さを失わずに刻まれ続けているイメージがあることに、改めてちょっと驚く。

8歳の子ども、多分トレーナーにジャージのズボンで、お下がりのぶかぶかのウインドブレーカーをまとって、朝闇の冷気に震えながらご来光を待っていた32年前の8歳の子どもは、そのとき何を考え何を思っていたのだろう。

消えていった記憶に対して、いくばくかの喪失感を初めて抱いた。

 

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白馬岳頂上宿舎の炊事場はなんと下駄箱の脇の狭い地べたである。おそらく以前は談話室などでも火が使えたと思われたが、昨今の火事予防などで仕方ない措置なのだろう。にしてもひどい扱いだ。食べるのは談話室でよいとのことで、地べたで作った料理を順次談話室に運搬した。

2日目のメニューは高野豆腐の麻婆豆腐、ナスとネギの照り焼き、しし唐とエビの炒め、きゅうりとみょうがの和え物、きくらげの和え物、スペインサラミとチーズの残り、締めにお茶漬けである。高野豆腐の麻婆豆腐が特に美味しかったなぁ。

夜は大部屋に僕らと単独の男性。要は3人だけだった自炊の客がひと部屋にまとめられたわけだ。その男性はいびきをかかない方で助かった。小屋泊ではありえない2日連続の快眠を得ることができた。

翌3日目は往路の大雪渓を下山するのみである。適当に起きて朝ごはんのサンドイッチを食べコーヒーを飲み、昨日の登頂以来ずっとガスに隠れて姿を見ることができない白馬の稜線に、別れを告げた。

父には空のザックだけ担いでもらい、ゆっくり慎重に歩き下った。それでも昼前には白馬尻小屋に着き、最後の晩餐。サバ缶を使い、トッピングにかつおぶしとおろし生姜もある、とっておきのにゅうめんを作って食べた。

白馬岳頂上宿舎を出発して約5時間半。13時20分に猿倉の愛車に到着し、無事下山完了した。

 

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帰りに父に「昔登ったときのご来光の写真て見れる?」と聞いたら、屋根裏に他の写真と一緒に保管されていると思うが、膨大な量で探すのはかなり大変、とのことだった。見ないほうがよい気もしたが、せっかく白馬に行ったことだし、そろそろ本物のご来光と32年ぶりに対面してもいいんじゃないかと思ったのだが。

しかしながら、僕にとって白馬のご来光・・・つまり過去の山の記憶というのは、実はそれほど重要な話題ではないことに突然気が付いた。雷光に打たれたように、なぜだか一瞬のうちにそれが分かったのだ。

登山中、父は「おれぁ山登ってるときが一番いい」と何回も言っていた。

一方、僕は子どものときは登山にそれほど興味を持っていたわけではなく、家族登山に頻繁に連れていかれたことから登山が普通の人のような特別な行事ではなかった、というだけだった。それが大学の頃から自発的に登るようになり、いつしか登るためにロープを出すような山行に手を染めていた。妻帯し子どもが2人いる今でさえ、人生で山が占める割合はとても大きいものになっている。

蛙の子は蛙ではないけど、自分もまた「山登っているときが一番いい」になったのかもしれない。

しかしこういった父と僕との関係性という論点もまた、僕自身の過去の記憶と同様、もはや大して重要なものではないのだ。なぜなら、あれから長い年月が経ち、幼い僕を連れて山に入っていた父が年をとったように、僕もまた年をとり、僕ら二人が一緒に山に入るときは、互いに昔を懐かしみながら、過去との対比のなかで今を登っているからだ。そんな登山もとても楽しいものではあるが、過去のほうを向いているという意味においては、僕らはもう未来に向かって登っているとはいえず、むしろ発展のない終わりに向かっているとすら感じるのだ。

重要なのは終わりゆく父と僕とではない。僕とわが息子との関係性である。これから未来へと始まっていく2歳の息子の人生。子どもの自分が父から、その後の人生で忘れえない強烈な印象として刻まれるご来光のイメージをもらったように、僕もまた息子に、彼が10年20年と感動し続けられるような美しい風景を、見せてあげたい。いや、見せてあげなければならない。子を持ったいち登山者としての自分が、山を通じて子に何ができるか、何をしなければならないか。32年ぶりの白馬は僕に痛烈に教えたのだ。過去ではなく未来を見ろ、と。

未来へ向かう美しい風景を、次の世代へとつないでいくこと、それこそが重要なのだ。父は僕につないでくれた。そして僕は息子につないでいくのだ。

これは何だろう、こんなふうに考えたことがなかった。いままで山の風景はいつも自分が感動することで占められていた。そうか。自分は親子登山の子から始まり、子から親になったのだ。この事実を改めて深く感じた。

息子が8歳になるのは6年後。きっとそのとき僕らは意気揚々と白馬岳に向かうのだろう。

 

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後日談。

父は32年ぶりの白馬がよほど楽しかったらしく、あれから屋根裏を探しまくったらしい。そのときの写真を見つけたと話してくれたのだが・・・。

写真の日付は1990。「32年前だと思ってたけど29年前だったぞ!」と言われた。僕は小学5年。少学2年じゃなかった!

父の記憶もまったくもってあやふやだ!朝闇のなか震えながらご来光を待っていた子どもの像が一気に消し飛んでしまった!32年前と思って紡いでみた記憶も、しょせんは都合のよい断片と記憶違いをつないだだけの妄想だったのかなぁ・・。もう年をとった僕らは本当に終わっている。

そして、なぜだか分からないが、白馬山頂とご来光の写真だけは見つからなかったらしい。多分それだけ抜き取って額に飾るなどして、いつしか散逸してしまったのだろう。

32年でも29年でも、もうそこはどうでもいいや。自分のなかで白馬で見たご来光だけは、圧倒的な美しさ、神々しさを保って、永遠に最高のままであり続けることが決まった。これからも「白馬で見たご来光をまた見たいなぁ」と思い続け、沢山のご来光を拝む。一生このご来光と付き合っていくしかない。

 

 

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DATE:2019年9月8~10日