隠レ蓑

お山の日記と、日々の懊悩

懊悩

C650付近

 

衝撃

4/23(土)9時20分ごろ、西丹沢・玄倉川、モチコシ沢から一本下流側の沢にいた。女~~~沢である。遡行開始から約1時間。F1の15m滝を右岸から巻き上がり、小滝がつらなるC650付近に至った。まだ下流域のなんでもないところだ。

右岸側を一段上がろうとして、大きなフレーク状の岩(100cm×60cm、奥行7~8cmくらい?)に軽く手をかけた瞬間、それが剥がれそうな感触があり、止めようもなく一気に剥がれた。咄嗟に岩をうっちゃりながら飛びすさって着地した、と同時にバランスを崩し、転倒を回避しようと無意識に目の前にあった岩を右手でつかんだ。その右手・・素手の右手に、剥がれた岩が落ちてきた。

岩と岩に挟まれる形となり、右手の甲に重い衝撃を感じた。

あ、喰らった、でもまぁ、耐えたな・・。そう思ったのだが。

右手を見やると、文字どおり甲が壊れていた。穴が空いていて、骨なのか腱なのか、皮膚の下にあって見えないはずのものが全部丸見えで・・、一部は甲から飛び出ていた。瞬間的に人体模型が浮かんだ。ギョッとした。その穴は、周囲から溢れ出るねっとりとした血で覆われて、あっと言う間に見えなくなってしまった。血はボタボタ垂れた。

一緒に入っていたパートナーのSさんも同時にこの一連を見た。そして二人同時に「あーーー!」と声を上げた。私は瞬間的に「下山しよう!」と言った。

右岸に上がってザックを下ろし応急セットを出した。右手が使えないので、ミリタリー映画でよくやるように、口を使って三角巾の袋を開けた。血の跡をたどるようにSさんもやってきて、応急セットを出してくれた。二人とも洗浄に使えそうな水を持っていなかったし、洗浄するには傷口が大きかった。やれることは少なく、三角巾を重ねて甲に押し当てて、テーピングで強めに固定してもらった。いまは興奮状態で痛みを感じないが、そのうち激しく痛み出すだろう。ロキソニンを先に飲んだ。

見ると、足元は血がボタボタ垂れていて、Sさんのジャケットとザックにも血が付いてしまっていた。こりゃ後日弁償しないといかんなと思った。Sさんを見やると、表情からかなり動揺しているのが見て取れた。そりゃ"経験豊富なはずの先輩"・・・つまり私が、なんでもないところで突然血まみれになったんだからなぁ。多分血を見たことによって激しい動揺に陥ったのだろう。そりゃそうですね。すまんの。

もっとも、私は私自身の心もまた動揺しているのを自覚していて、それを先に解決する必要があった。というのも、壊れた右手に対して少々パニック気味になっているようで、走って下山したいという衝動が猛烈に湧き上がっていたからだ。

落ち着く必要があり、割り切る必要があった。こういったコントロールしがたい情動の発露は、10秒でも頭を空っぽにして落ち着くためだけの時間を作ることと、理性的・具体的な行動計画や手段に置き換えることで、大抵は解決することを知っている。

ここは沢のまだ下流域だ。中退するには、地形的にも、情報の蓄積といった観点からも、沢下降が明らかによい。区間は二つに分けられ、ここC650からF1までが一つ、F1から出合までがもう一つ、である。前者では小さな淵を持ったCS小滝とF1の2か所で懸垂下降になるだろう。後者では一つだけ小滝があったが容易に巻き下れるだろう。

血まみれだし右手は全く使えない。使う気もしない。胸元で挙上し動かさないようにしたいし、絶対に沢水で濡らしたくないし、土などで汚したくもない。左手と口ですべてをこなし、Sさんをケアしながら下山する。できるかね? 自分にあえて問うてみる。そりゃぜんぜんできるだろ、と応える頭のなかのもう一人の自分。まぁいいだろう。

Sさんに下山について簡潔に説明し、あと何ていったか忘れたが、自分は大丈夫だから安心してくださいねみたいなことを言った。持ってきた40mロープと25m補助ロープを確認してSさんのザックの上にパッキングしてもらった。水を飲んでおこうか一瞬迷ったが、おしっこ動作が困難なので止めた。

受傷から10分ほどで下山開始した。

 

 

遡行時、小さな淵を持ったCS小滝 落ち口からSさんを見下ろす

F1 ロープスケールちょうど25m

 

下山、・・・懊悩

歩き出したが思った以上に視野がせまくて、集中力を欠いている自分をいきなり自覚した。実は、この夏に考えていた勝負の山行のことが未だに脳裏をチラチラ横切っていたんだ。それに怪我は実は大したことないんじゃないか、みたいな都合のよい妄想が湧いてくるのを止められない。あと・・、これは自分でも意外だったのだが、人間の手はなんて脆いんだ、クソが、と耐えたと思ったのに壊れた右手に対して、内心で苛立ちを覚えていた。

「愚かだ・・・」と自分自身に思わず嘆息した。

一方で、愚かさ以上に「ラッキー」も自覚していたのだ。

いかにもありがちな"仮定"ではあるが、剥がれた岩が細身の女性であるSさんのほうに落ちてたら・・、と思うと、私の手の損傷で済んだのはラッキーとしか言いようがない、というわけ。それに、ではもしも落ちたのが、手の甲ではなく、指だったら? 指は何本も潰れてしまったかもしれない。そうなっていたら実におそろしい。さらにここは丹沢のゲレンデ的な沢の下流域で、イージーな環境だ。もしもっと山奥だったら・・? こりゃ色々ラッキーだったとしか言いようがない、と私としては心の底からそのようにも思うのだ。

いま自分が置かれた状況よりも悪い状況を思い浮かべて、だから現状でよかったのだ、と結論する・・、そういうことなのか? これは自分を納得させるための、手垢にまみれたレトリックなのではないか? 本当にラッキー・・だったのか? にわかに自問自答する・・、いや違う、自問自答はしない。自問自答には至らない。なぜなら、ラッキーだったと思うことに疑いの余地がなかったからだ。つまりこれは思考の帰結ではなく、感情の帰結と言える。まずラッキーという結論があって、それをある意味補完するために思考しているのだ。

ひとつの記憶が浮かんだ。"お山のアクシデントに対するマインド"だ。兼ねてからアクシデントでは、死という結果以外はすべてラッキーだと考えており、やらかしてしまった山の仲間に対して常にそんなマインドで接してきた。そのマインドが自分自身に対しても全く同じなのを、いま知った。

焦りだったり、不安だったり、苛立ちだったり、まとまりなくネガティブな方向に揺れ動いていた妄想によって、自分が左右される必要はないのだ。それらは突然のアクシデントによって一過的な混乱を及ぼしたに過ぎず、短い時間で自然と「そうではあるけれど、この怪我で済んでラッキーだった」という方向性に収斂していったのだった。いや、実際していったのかどうかはよく分からないが、していったように思ったのだ。

そうやって残ったのは、あくまで自分の判断や行為に対して肯定的な感情であった。手の怪我で済んだのは本当にラッキーだった。いままでのお山での経験の蓄積があったからこそ、きっとこれで済んだのだ。潜在意識においては、私はこのラッキーな結果を望んですらいたのだ、という気がしてくる。なんてこった、お山よ。あなたは望んだ結果を与えてくれたの。普段、里の生活では自己肯定感が底辺にある自分が、お山では自分をこんなに肯定できるなんて。あぁ、お山よ。ありがとう。

20秒? 30秒? こんな下らない妄想に浸りきって、ハタと現実に戻った。後ろを振り返って、自分が怪我をしたわけでもないのに未だに動揺の色がとても濃いSさんの顔を見たら、頬を張られた気分になった。何という温度差(?)。何をやっているのだろう自分は。

とりあえず今後のあらゆる山行計画を頭のなかで白紙にし、右手のこともいったん諦めることにした。いまやるべきことははっきりしており、2次災害を出すことなくきちんと下山することだ。特に、自分はともかく沢にさほど慣れていないSさんにも怪我をさせるわけにはいかない。そうだ。それ以外に、いま重要なことなどあるだろうか?(いや、ない。)

集中すべき時があるとしたら、言うまでもなくいまだ。単独で厳しい山行をこなしている時の、"フラットな感情で、ほどよい集中力がいつまでも維持された状態"を思い浮かべ、いまその状態になるんだと自分に言い聞かせてみた。それはちょっと無理だね、ともう一人の自分に言われた気がした。まぁいいだろう。いまできる限りで目の前のことにフォーカスしましょう。

右手が使えないとしても、私にとってこの下山が困難なものではないことは、よう分かっている。

・・

さて、現場から右岸を、おっかなびっくりの巻き巻きで歩き下ると、CS小滝に着いた。落ち口から下方を見やった。数手のクライムダウンはともかく、淵のへつりは足置きがスメアリングなのでドボンの可能性が高いと思われた。こりゃやっぱり懸垂だろ。斜め懸垂15mで小滝をかわした。左手と口でロープをさばくのが、えらく時間がかかる。Sさんが手伝ってくれた。Sさんのロープワークは決して早くはないが、それでもこんな私よりは早い。

さらに枝沢を巻いて、少し歩くとF1に着いた。遡行時も思ったが、トポの15mとの記載よりも、明らかにもっと大きな落差がある。落ち口の残置支点を使って40mロープを下ろしてみたが、下まで届いていない。20m以上はあるということだ。25m補助ロープを回収コードにして、40m一本で下りることにした。そのやり方を知らなかったSさんに注意点を説明して、もし回収コードが下まで届いていなかったらロープは残置します、と伝えた。降りてみると距離は運よくちょうど25mで、残置せずに済んだ。

もうここからはロープは要らない。少しばかり安心した。

・・

心に余裕ができたらしい。はっきり言って手が痛むのだが、それはもう過去のことになっていて、最後になるかもしれないこの新緑の沢歩きを楽しみたい気分にいまはなっていた。そうだ。これが最後になるかもしれないんだ。怪我の後遺症で手が使えなくなり、沢登りができなくなる可能性もあるし、妻の許可が出なくなる可能性もある。そうだとしたら今日が最後の沢だよ?! 新緑の沢を楽しんでおかなくては損だろ?

ふと眼に入ったのは、ブナが群生する斜面にあった、生き生きとした緑の苔にびっしりと覆われた小さな凹地だ。そこだけ木漏れ日のスポットライトで照らされている。それだけではなく、スポットライトは、頭上で微風に揺れるブナの葉によって、ゆらゆらとした水面のように柔らかな陰影すら映し出しているのだ。あー、心落ち着く。これが一番好きな光景なんだ。言ってしまえば、これは森の沢でよく見られる光景にすぎない。でも、あー、これが好きなんだ。森の沢が好きだー。何度見ても飽きることがないんだー。写真、あー、カメラはザックに仕舞ったので、写真は我慢するしかない。

しかし5秒悩む。やはり写真を撮りたい。ザックを下ろし左手一本でカメラを探して、写真を撮って、仕舞って、ザックをまた担ぐ。その動作にかかるのは1分か? 2分か? それによって怪我が致命的になるか? 写真を撮る余裕はある、と思った。しかしながら、それによって、Sさんと共有しているであろう"ちゃんと下山しようモード"が損なわれる気がした。いや損なわれるというか、Sさんから、こいつこんな時に何やってるんだ、と思われるだろう。やはり写真は我慢だ。それが妥当だろう。 新緑きれいですねー、と一言かけた。それも場違いな一言だったかなぁ。

そこから出合まですぐだった。あとは林道を歩くだけだ。ときどきすれ違う家族連れやカップル連れに、血まみれの手を見られないように隠して歩いた。見られたらせっかくの散策を台無しにしてしまうだろ? Sさんがずっと話し相手になってくれて本当にありがたかった。

 

写真はイメージ

 

救急車

11時30分に駐車場に着き、救急要請した。30分ほどかかるという。その間にお着替えを済まし、Sさんと今後のお願いごとなどを話した。救助対応は不要なので山岳会に緊急連絡は不要です。落ち着いたら通常の下山連絡で事情説明をしましょう。ただ遭対担当のOさんが今日は里にいるので、先に事情を説明しておいてもらえると助かります。搬送先まで車でついてきてもらって、処置などもろもろ終わったら合流して帰りましょう。いやほんとすみませんね。などなど。

12時ちょうどくらい、電話してから20分くらいで救急車が来てくれた。隊員の方は沢にも詳しくて頼もしい限りだ。手の状態をみてもらい搬送先を選定する。うろ覚えだが、近くだが整形外科医がいなくて外科医の対応になる病院と、遠くて小さいが整形外科医がいる病院と、どちらがよいか聞かれた。判断基準をもっていない私は決められず隊員に任せた。近くの外科医対応になる病院に搬送されることになった。

救急車ではお熱を何度測っても37.6℃だった。炎天下で水をほぼ飲んでいなかったため熱中症のような状態になっているらしい。いつもだから気にしていなかったが、そんなに体温が上がっているのか。いまはコロナ対応がシビアなため、それでも受け入れ可能か搬送先とやり取りしてくれた。グレーゾーンで受け入れてもらえることになった。

 

A病院

12時30分ごろ病院に入った。外科医の診察を受け、腱が断裂しているらしいことが確認されたが、外科医では対応が分からないようだった。関係する大学病院に搬送して緊急手術をする必要があるのかどうかで、大学病院と救急隊員とやり取りしていた。その脇で、もう一人いた研修医と思しき若い女が、こんなのは大した傷じゃない、みたいなことを豪語していて心底ムカついた。女はすぐいなくなった。やがて整形外科医と連絡がついたようで、ここでは傷口の洗浄・縫合の処置を行い、帰宅してから地元の手外科に行くことになった。

お熱は結局37.6℃から下がらず、グレーゾーンでPCR検査を受けた。1時間ほど待ち陰性結果を得て、ようやく処置ができる場所へ移った。今思えば短い1分かそこらの軽い洗浄をしてもらい、11針縫って傷口を閉じ、シーネ固定してもらった。14時30分ごろ処置がすべて終わり、ロキソニンと抗菌薬をもらった。精算して、Sさんと合流した。Sさんにもお礼を言って家に帰った。

 

 

☟CAUTION‼ グロテスクな写真が含まれているため、見たくない場合はクリック(拡大)しないでください

傷の写真 左から、4/23 A病院(洗浄したところ)/4/23(縫合したところ)/5/2 B病院(デブリドマン4日後)/5/23(手術11日後・抜糸日)/5/30(手術18日後)/6/4(手術23日後)
レントゲン写真 左:4/25 B病院(初診時) 右:5/16(手術4日後)

5/15(手術3日後)。焼けるような激痛で全ての指が1mmも動かせなかった。診断は、環視(薬指)中手骨開放骨折、示指(人差し指)伸筋腱断裂の合併症だった。さらにジストロフィーになっていると言われた。

 

B病院手外科

4/25(月)地元のB病院の手外科。4時間以上待ってやっと診察になった。レントゲンで薬指の甲のところ(中手骨)が骨折しているのが分かった。縫ってある傷口を診られ、感染してなさそうだし悪くないね、みたいな判断が下された。3日後に骨折部にプレートを埋める手術が決まった。腱がどうなっているかは手術で開けて対処しますと言われた。朝8時に来て、出たのは16時過ぎ。疲れ切った。

4/28(木)手術。手術台に横たわり包帯を取ると、ガーゼには黄色っぽい浸出液の跡が広がっていた。それを見た瞬間、手術室の雰囲気が一変した。予定した手術は即座に中止になり、傷の洗浄(デブリドマン)に変わった。つまり、結局かなり感染していた。脇から伝達麻酔という、腕がビクンビクンと痙攣しておそろしい麻酔を施されたが、効きがわるく、感覚が残っていた。デブリドマンでは患部を大きく切開して洗浄するため、ジョキジョキやられた時、あまりの痛さにのたうち回って「うおぉぉー」と断末魔の叫びをあげた。「なんだこれ土が残っている」「指のほうまで細胞がやられて壊死してる」「ジストロフィになってる」などと散々シリアスなことを言われた。診断は「環視(薬指)中手骨開放骨折、示指(人差し指)伸筋腱断裂」の合併症となった。4日後再診になり、感染具合が改善していなかったら入院と言われた。念のため確認したが、かなりの重症だと言われた。ギプスでドラえもんのような手になって帰った。手がひどく痛んだ。高容量の抗菌薬を1日4回飲み、うっ血を防ぐため常に右手を挙上し、寝る時も心臓より高めにする日々になった。

5/2(月)ギプスを取ると手は悲惨な見た目だったが、感染は改善していた。1週間後また確認し、状態がOKなら改めて手術することになった。特定の菌は検出されなかった。岩に押しつぶされた挫滅創なので、壊死した細胞が液状化し指のほうにも悪影響を与えたらしい。シーネで固定された指は親指をのぞきピクピク程度しか動かせない。

5/9(月)3日後に手術が決まった。

5/12(木)手術。おそろしい伝達麻酔をまたやらないといけない。突然頭の中でサイレンがとてつもなく激しく鳴り響いた。毛細血管から脳に微量な麻酔が入るという副作用らしい。気が狂いそうになるサイレンが消えるまで10分ほど耐えた。その後、手術に入る前に「ここがまだ感覚がある」などと訴えて局所麻酔を先に入れてもらった。のたうち回るのは懲り懲りだ。薬指の骨折部にプレートを埋めているらしい時は、ドリルのウイィィーンという音が最悪に耳障りだった。術中、また医師はシリアスなことを沢山言っていて、正直のところうんざりした。楽しいことを妄想しようと思って、ポルトガルのロカ岬を思い浮かべた。そこは「ここに地終わり海始まる」の名文句で有名なユーラシア大陸の西端で、子どもが自立したら妻と旅行に行くのが夢なのだ。右手が使えなくなっても旅行はできるだろ? などと自棄的な思考をもてあそび、現実逃避に努めた。しかし、点滴の影響で手術の最後のほうは、尿意を我慢するのに必死だった。終わったらトイレに最優先で行かせてくれ、と看護師にお願いした。そしたら術後、医師の説明を受けることもなくトイレに連れてってもらい、結局そのまま説明なしで帰ることになった。腱断裂は結局どうなったんだろう。かなりイライラした。

術後2日間は手が焼けるように痛くて痛くて仕方なかった。呪わしかった。全部の指が1mmも動かせなかった。少しでも動かすと肘まで稲妻のように激痛が走り声をあげ苦しんだ。

5/16(月)骨折した薬指にプレートが埋まっているのが、レントゲンを見せてもらって分かった。腱断裂した人差し指は、2本通ってる伸筋腱が両方断裂していたという。ギプスを取り、人差し指から手首までのシーネ固定になった。術後10日で抜糸だが、人差し指の固定は5週間である。

手はグローブのように腫れ上がりグロテスクだ。また全体が拘縮しており丸くすぼんでいる。親指以外、指先がわずかに曲がる程度で、もっと曲げようとすると激痛が走る。医師に指を触られた時は思わず立ち上がって悲鳴を上げてしまった。そんな私を観察した医師からは、指がジストロフィ(つまり傷が治った後も自律神経がおかしくなって、激痛や関節拘縮、骨萎縮などがひどくなってしまう病態)になっていて、リハビリは2年、利き手を右から左に交換することも考えたほうがよい、と言われた。あとペインクリニックに行ってもらう、と言われた。

5/23(月)術後10日になり抜糸した。最初はペインクリニックの話になりそうだったが、前回以降、自分でそれなりに沢山リハビリを痛みに耐えてやりまくっていて、指が少しだけ曲がるようになっていた。それを見せると、ペインクリニックはなしになった。ジストロフィうんぬんは最悪のケースとして医師が言及したもので、私の症状はまだ改善していくことが多分できるのだろう。とはいえ長いリハビリの末だろうが。また、抜糸したことで有酸素運動の許可をもらった。

この日でB病院での治療は終わりとなった。今日で終わりなら、山野井泰史やアレックス・オノルドの本を読んでいるという医師に、「外道クライマー」でもプレゼントすればよかった。いかにも外科系といった気質の医師だったが、お世話になった。次からは経過観察とリハビリをメインに、もともとB病院に勤めていた他の医師が開業した近くのクリニックに行くことになった。

 

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C整形外科、その後

5/27(金)そこはスポーツ整形でも何でもない、いわゆる町のクリニックだった。医師は元はプロスポーツ選手を診ていた経歴と聞いたが、その経歴は正直のところ全く感じなかった。毎週金曜に通い、レントゲンをとって経過観察した。リハビリメニューというほどのものはなく、日常生活でよく動かすことが大事と言われた。

有酸素運動の許可をもらって以来毎日走っていた。最初は30分、1時間・・。走り出してから1週間ほどたった頃、つまり手術から3週間ほどたった頃、突然手の調子がよくなり、運動した後感じていた傷の違和感や微妙な痛み・痺れがなくなった。それで、自分のなかで絶対に転ばないことを条件にして、その週末の6/4(土)から軽い山歩きを再開した。

6/17(金)4回目の診察で、腱断裂した人差し指のシーネ固定がとれた。5週間固定していた人差し指は拘縮しきっており、第二関節が数mm動く程度の可動域になってしまった。人差し指だけでなく、骨折した薬指も、そして中指も小指も、ちゃんと握ることも開くことも出来ないし、痛いし、握力もほとんどない。それでもシーネが取れて喜んでいる私を見て、医師は、時間はかかるが地道に頑張りましょう、と言ってくれた。その言葉に初めて主治医の人格を感じるとともに、彼の目が私に向くのを感じ、私もまた彼に目を向けた。主治医の、長年の医師としての経験値が成すであろう冷静な瞳の奥に、わずかながら哀れみの色が滲み出ているのが見えた。すくなくとも私はそう感じた。それで、この右手が重症なのだと改めて思い知った。

ともあれ、2か月ぶりに素手の生活に戻った。

 

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以下略