隠レ蓑

お山の日記と、日々の懊悩

大菩薩峠

 

大菩薩は結構好きなお山で、そんなに沢山ではないけれど、何回か行ったことがある。

20代半ばの頃、終電つづきの仕事で精神的に追い込まれ、山なんかとても行けない生活に陥ったときに、いや、やっぱり行きたい、軽いとこなら何とか・・、と思って行ったのも、大菩薩だった。

ある朝、横浜から塩山まで、いまはなくなった特急はまかいじに乗った。塩山に着いたのは昼前ちかくで、たしか登山バスは全然なくてタクシーを拾った。何をザックに入れていたのか全く覚えてないが、ずっしりとえらく膨らんだザックを背負って、車道のごとく面白みのない登山道を夢遊病者のようにふらふらと歩いた。途中で小雨が降ってきた。その日は峠の小屋に泊まった。登山口から小屋までごくごく短い距離なのに、永遠のように長く感じたのをうっすらと覚えている。身も心もボロボロに疲れ切っていたのだろう。

宿泊客は僕だけだった。そうだ、小屋主のおじさんが大変やさしくて、おそらく半分死人のような顔をしていた僕に沢山話しかけてくれた。客がいなくて暇だったのかもしれないし、気になったのかもしれないし、分からないけれど、それはとてもありがたかった。小屋には当時の皇太子殿下が登られたときの写真なども飾ってあった。夜は雨だった。ガスで湯を沸かし、温かいにゅうめんを作って食べた。マットやシュラフを出して寝た。そうだ、20代の僕のでかいザックからは何でも出てきた。要るかもしれないものは何でもザックに放り込んで背負っていた。

翌日起きてもまだどんよりした空模様だった。小屋に荷物をデポし、雨具を着てスパッツも付けて、モノトーンになった登山道を大菩薩の山頂である嶺に向かった。木々に囲まれ展望がない嶺は、未来に希望を持つことができない若者にはむしろ心地よかった。そのうち霧が晴れてきた。嶺を後にし、岩稜の登山道を下って小屋のある峠が近くなってきた頃、笛のような音色が風に乗って遠くから聞こえてきた。峠ではただ一人の女性が岩に腰掛け、静かにオカリナを吹いていた。どこか郷愁を誘うそのやさしい音色は否応なしに耳に入ってきて、何故だか涙が出そうな気もちになりフードを目深にかぶった。小屋の荷物をまとめたあと、そうだ、下山の登山道はまったく物足りず、町まですっ飛ぶように走り下った。

たまに思い出す大菩薩の記憶の一つは、こんな感じだ。

 

 

去年に新緑の沢歩きで久々に大菩薩に登ったときに、峠の喧騒ぶりにはちょっと引いだけれど、家族登山にいいなぁと改めて思って、妻に提案した。紅葉の秋に大菩薩はどう、と。そしたらそのとき全然話を聞いていなかったのか、2~3か月後に妻から大菩薩ってところが家族登山によさそうだと思うんだけど、どう、と逆に提案された。しばしどっちが先に着目したかで揉めたが、ともかく10月30日の大菩薩登山が決まった。

上日川峠の登山口から峠を周回する、なんでもない普通の日帰り登山コースだ。朝は異様に寒くてダウンを持ってこなかったことを後悔したが、陽が昇るにつれて暖かくなってホッとした。福ちゃん荘でさっそくお菓子タイムを子どもたちに施し、やる気をチャージさせた。全体的に紅葉は盛りをすぎている感じではあったが、唐松尾根という気もちのよい尾根道を歩いた。

家族登山では、中学くらいになるまで基本的に子どもには一切荷物を持たせないつもりだし、ベビキャリを駆使しているし、ずいぶんと過保護なのは自覚している。しかし、今日は一足先にサイズアウトしてベビキャリを卒業していた8歳の娘につづき、4歳の息子も卒業させようと思って、ベビキャリは持ってきていないのだ。

娘はバレエを熱心に頑張っていることもあり、バランス感覚がよくていつしか上手に歩くようになっていた。親の助けも、要らないよ、と言う。何でも自分でやりたい年頃なのだ。

一方、4歳の息子はまだまだ危なっかしくて、一挙手一投足に注意している。しばしば石でバランスを崩して転びそうになるし、注意力散漫でよそ見ばかりしている。それでもクライミングみたいな遊びは好きなようで、わざわざ急なところを選んで登ろうとする。そんなときは注意深く見守り、危なくならない範囲で自由に登らせている。「ここに右足を置けば、右手がここに届くんじゃない?」などとアドバイスして、彼がバランスを崩しても1cmも落ちないくらい厳重に両手でスポットするのだ。そして口ではまた「お父さんが守っているから、思い切って登ってごらん!」などと言う。息子もそれで安心してくれて、思い切った動作を起こして、結構上手に登っていく。

僕の言葉は彼に影響を与えているようで、妻が後で教えてくれた。僕と娘、妻と息子のペアで少し離れて歩いているときに、息子が「ママ、僕が守ってるから転んでも大丈夫だよ」と声をかけるのだ、と。それで妻が「ありがとう」と返すと、息子は「ママ、じゃあ転んで。守るから!」と母を守るヒーローを自作自演しようとするのだ。あまりに微笑ましくて、妻と笑ってしまった。

尾根道では3回も4回も休憩して、その都度子どもはお菓子タイム。ちょっと食べさせすぎかなと思ったが、尾根を登り切った雷岩でまた大休止して、皆でカップラーメンを食べた。娘はよく食べてくれ元気そうだったが、息子はミニサイズの半分も食べれず、少し気もちが悪そうだ。彼は生まれつき胃腸があまり強くない。今日はかなり早起きで家を出て、登りながら何度もお菓子やパンなどを食べさせているので、胃腸に負担がかかっていると思われた。それに普通の登山とはいっても、子どもにとっては非日常な冒険で、緊張もするだろうし。そこから大菩薩峠までの縦走路はしばらく妻と交代で抱っこして、ゆっくりゆっくり進むことにした。

少し元気が出たようで自分で歩きたいと言うので、手つなぎで歩かせた。しかし、下り基調の岩稜の尾根道は思ったよりも負担が大きく、ほどなく息子から吐きそうな前兆を感じた。僕はあわてて再び抱っこして落ち着かせて、自分のフリースを脱いで彼にかぶせた。先に進んでいた妻と娘に、待って!と伝えて、揺らさないように一歩一歩ゆっくり足を進めた。途中の賽ノ河原という鞍部で休憩小屋があって助かった。妻と僕のフリースを布団代わりにして息子を休ませた。親は少々寒かったけれど、15~20分くらいで息子の様子が落ち着いて、娘と一緒に遊び出した。ホッとした。

そこからも抱っこしたり、少し歩かせたりで、ゆっくりと進み、大勢で賑わっている大菩薩峠にやっと着いた。記念写真を撮ってトイレを済ませた。子どもたちはすっかり元気になってくれて、峠から福ちゃん荘までは、車道のような登山道をうたを歌いながら歩いた。福ちゃん荘でご褒美におしるこを食べさせて、親は甘酒を飲んだ。そしてまた歌いながら駐車場へ戻った。

 

 

後日、父に聞いてみたところ、予想外なことに、僕たちは家族登山では大菩薩に行ったことがないらしい。あんな簡単なとこ行ってもしょうがねぇだろ、と言われた。父は約40年前に登ったきりという。そんな昔の大菩薩は、いまと違って茶屋がもっと営業していて、より趣きのある雰囲気があったのだろうか。あるいは、昭和の登山ブームのあおりで大混雑していて、こんな人混み来るもんじゃないな、とうんざりしただろうか。

大菩薩ではやってみたい登山があって、それは塩山から大菩薩峠まで茶屋をつないでゆっくり歩く、という登山だ。塩山駅から歩き出して、途中の烈石で自動販売機で飲み物を買って、番屋茶屋あたりで休憩して、次は千石茶屋でも何か食べて、登山道に入ってのんびり登って、ロッジ長兵衛は登山客で慌ただしいだろうからスルーかな、次の福ちゃん荘で休憩か泊まりか、または峠の介山荘まで登ってから泊まりか、それで翌日に嶺まで行く・・・、そんな感じ。なんでもない散歩のような、車のなかった時代の茶屋をつないだ行脚のような、温故知新な登山。これは息子を連れていきたいと秘かに思っている。

 

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これから沢山ではないにしても何回かは大菩薩をまた登るだろう。いまはお散歩のように気楽な登山ができる場所だ。しかし、これからずっと先のいつか、病気や怪我をするかもしれないし、年老いた自分が大菩薩といえど行くのはもう無理だな、と感じるときがくるかもしれない。おそらく、そのときは登山をやめるときなのだろう。福ちゃん荘で甘酒を飲みながら、ふと、そんなふうに思った。

いや、そのときは逞しくなった息子が連れて行ってくれるかな。そうだ、そうなってくれたら、僕はとてつもなく嬉しい。介山荘に泊まって、ここは俺が若いころ仕事で疲れ切ってたときに来てさ、にゅうめん作って食べたんだよ、と昔話をしてあげよう。彼はやさしい子だから、父のどうしようもない与太話にもきっと付き合ってくれるはずだ。

 

DATE:2022/10/30 大菩薩登山(上日川峠~雷岩~大菩薩峠 周回)