隠レ蓑

お山の日記と、日々の懊悩

栗駒山・ドゾウ沢

 

朝、車中泊していた長者原SAであまりに暑苦しくて6時に起きた。1時間くらいしか寝られなかった。そりゃ23時に川崎を出発して、長者原SAに着いたのが4時半。そこで力尽きて車中泊したが、夜が白み始めたなぁと思っていたら、ちょっとだけ意識が途絶えて、気が付いたら今である。今日はやめだやめだ、と瞬間的に思った。はっきり言って疲れ切っている。今日はそうだ、須川温泉にゆっく~り入って、辺りを散策して、昼寝して、酒を買ってボクシングの世界戦を道の駅で見て、寝よう。山は明日だ。

そういうわけで、須川温泉の露天で頭を空っぽにして、とてつもなくのんびりとした時間を過ごした。温泉から上がって、車の窓を開け放って涼しく昼寝した。実にぐっすり寝て、目が覚めたのはもう夕方の17時だった。空の向こうに夕日が沈もうとしていて、おぉと思って急いで遊歩道を駆け上がり、お決まり構図の写真を撮った。山は登れずとも、栗駒山の空気のなかに長時間いれて満足感を覚えた。里に下りて、イオンで買い物して道の駅に入った。

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再びの朝。いわかがみ平へと林道を上がっていくにつれてガスが濃くなっていき、小雨である。予報どおりは予報どおりなのだが、マジかと愕然として、しばらく車のなかでモジモジタイムを過ごした。ドゾウ沢が目的だが、栗駒山の山頂まで行きたいので、いわかがみ平が起点だ。その分歩きが長くなるのだが、昼くらいから晴れるから、と仕方なしに出発することにした。雨具を着て・・と思ったが、探しても出てこない。雨具は持ってくるの忘れたようだ・・。ったく。

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新湯沢は小雨に濡れて少し滑りやすくなっていた。等高線が示すとおり最初はクライムダウンや巻きもあったが、次第になだらかなゴーロ歩きになる。やがて斜面崩壊して土砂の面を晒す出合付近が見えてくる。

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ドゾウ沢。ずっと小雨のなか、いわかがみ平から2時間ほどかかった。

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すぐにでかい堰堤。左岸から。

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堰堤の上は土砂で埋まり切った広河原だが、5分も進むと、威圧的な崩壊面を晒すようになる。

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次にはでかい転石が沢床を埋める。これはせっかくだからと、ど真ん中をボルダリング感覚で・・。

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堰堤上で沢は北向きから右に折れ、次いで左に折れる。でかい転石はこのあたりで勢いが殺され堰き止められた、ということだろうか。

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転石の吹き溜まりで小さな連瀑になったところを越えると、

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2つばかりまた転石の小滝を越え、

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また河原になり粛々と歩く。

 

やがて両岸が崩壊面のV字になっていき、

 

ガスの向こうに見えてくる。分かっている。ドゾウ滝だろう?

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ドゾウ滝。立派だ。できれば晴れているときに会いたかった。今はあなたを登るのがちょっと陰鬱な気分だ。見てのとおりすごいガスでしかも小雨だから。それに私は独りだ。

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ちなみに右岸の側壁は洞窟状にえぐれていた。いつか大規模崩壊しそうな気がする。

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右岸の土砂を軽く上がり、クラック沿いに直上し、そこから右上して落ち口に抜けた。濡れていたので若干滑りやすく、1ムーブごと慎重に慎重を期したが、足元が覚束なくて幾度か心が揺れそうになった。

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落ち口から見下ろした。

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ドゾウ滝のクラック部分でも思ったが、滝上のここでもふと思う。赤っぽい土砂で埋め尽くされているけれど、本来はこの濡れて黒くなった岩がドゾウ沢の色だったの、かな。ちょうど新湯沢のように・・。

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そこから視界が広くなり、赤いナメと、

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地盤を掻き出したような小滝が2つ。そして、

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両岸がえぐり取られたような形状の赤い沢床。

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そんな空間で小滝が3つばかし続く。


左岸から。

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左岸を歩いて通過。

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崩壊面の壁が高くそびえている。C1020mあたり、沢が左にゆるやかに曲がる付近で、左岸斜面が立っているようだ。

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ガスの奥に門のような構えの滝が見える。

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灰色の粘土質の土壌に穿たれた小滝。これは登れず、戻って右岸を巻いた。巻き登りは足元が崩れに崩れ、蹴り込んで壊しながら勢いで登り切る。

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滝上の灰色の粘土状は、戯れに蹴り込んでみると足がめり込んだ。こわっ、と思った。

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その後すぐ出てくるこの小滝を登ると、

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沢はなんだか突然穏やかな様相になり、ちょっとだけナメが続く。

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3連の細い小滝を越えると、また視界が広くなり、

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次のナメ状のこの小滝を越えたところで、

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空が明るくなった。予報どおりなのだが、もっと早くに晴れてくれてもよかったんですがね?と独りごちる。時間は12時を過ぎたところ。C1060mあたりで、もうドゾウ沢も終盤。あと標高差150mくらいで登山道だ。もっと出発を遅らせたらよかったか・・、などと愚かな考えが巡るが、とりあえず休憩して頭を空っぽにする。まぁいいでしょう。

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崩壊の色を濃く残しながらも美しい小滝。

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この小滝を越えると、

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源流感が一気に強くなる。沢床も赤より緑が多くなってくる。

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そしてこのナメを右岸からよいしょと上がると、少しナメがあって、

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5分ほどで、C1190m付近の三俣。右俣はごく小さく写っていない。左俣1:中俣4。水量の多い中俣を進む。

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驚く。崩壊の沢は源流では源流然とした癒やしの風景に変わり、どこまでも穏やかだ。崩壊の起点がさっきの左俣のほうの上部のため、ここ中俣源流では当然の理とも言えるが、なにか奇跡のように感じる。

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やぁ、お花が咲いている。

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小さなナメと流水溝の流れを交互に繰り返し、ふと気がつくと

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登山道に出た。この裏掛けコース登山道の佇まいはさりげなくて、とても好印象。お手製の案内板ごしにドゾウ沢の来し方を見下ろした。

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個人的な興味を満たすために、流水溝をまだ辿る。ゆるやかな湿地となり、稜線へと伸びる緑の斜面に向けて、幾重かに分かれた小さな流れはすぐに消えていく。

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一番太そうな流れを、植物を踏まないように四つん這いになったりしてなんとか辿ると、それもあっと言う間に、


湧水の穴に消えていった。草をかき分け見やれば、穴からポコポコと水がとめどなく湧き出ている。顔を思いっきり近づけて凝視し、手を差し出して水に触れ、母なる山体で育まれたその冷たさを感じると、指先から体中に充足感が染みわたった。この沢はこれで終わりでよいと自己完結して、そこから藪を漕いでさらに進むことはせずに、登山道に戻った。

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休憩したところからドゾウ沢をまた見下ろして一枚・・。すぐそこに2008年岩手・宮城内陸地震において土石流の起点となった東栗駒山の強烈な崩壊崖があり、何度もそれを見たはずなのに、写真はこれしかない。それ自体を写真に収めようとは思わなかったようだ。濃霧が晴れに、土砂の沢が緑の湿地に、そして、死が生に、変わりゆく目の前の風景の果てに出会った、普遍的に生まれ続け、流れ続ける清冽な水に、意識が向いていたからだろうか・・・。


妄想に耽るのは一旦おわりにして、山頂へ行こう。

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あぁ、ここは数年前、産女川をかたくなに遡上したとき、横切った渡渉点だ。

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やがて見えてくる。

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ここまで来たかった。

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夏から秋へと移ろう栗駒山の神の絨毯・・。下山は中央コースの石畳を爆速で駆け下りた。

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いわかがみ平(6:55)~新湯沢渡渉点(7:45-8:00)~ドゾウ沢出合(8:50)~ドゾウ滝(10:15)~C1190m三俣(12:30)~源頭点(13:05)~登山道(13:15-13:35)~栗駒山(14:30-14:55)~いわかがみ平(15:25)

ルート☟

 

 

 

 

 

・・・・・・

2008年に発生した岩手・宮城内陸地震で、ドゾウ沢の源頭である東栗駒山の東側斜面が大規模に崩壊し、土石流となって10kmも流下したという。20年近く経った今、沢はそれなりに安定しているように感じられるものの、「土蔵沢」というほどだから、もともと植生や土壌が流出しやすいのだろう。とはいえ、地震の前のドゾウ沢を映した写真はわずかで、かつてはどんな様相の沢だったのかよく分からない。それがとても残念であり、なにか不思議でもある。

死者も出した大きな災害だから、大変に不謹慎なのは承知しているが、ドゾウ沢で愚にもつかぬ妄想が頭をずっと巡っていた。以前に子どもに読み聞かせた「日本の川 たまがわ」という絵本を思い出していたのだ。小さな雲に乗った山の神さまと男の子が、空から川を見下ろしている。木々に降った雨が源流となり、支流を合わせて丹波川となって大きくなり、奥多摩湖を経て多摩川と名を変え、やがて東京湾に出る、という多摩川が生まれ海に消えていく生涯を、空から。・・・ドゾウ沢源頭が崩壊し土石流となって流下した瞬間を空から見ていたとしたら、それはどんなものだっただろうか、という妄想。絶望なのか、空白の虚無なのか、雷撃を受けた思考停止なのか、あるいは失禁しそうな甘美なのか、なんなのか。

表現のいち行為として登っている私にとっては、内省的な登山を行うことは、最も重要な活動形態であって、いわば登山の本質そのものである。山のなかに在る特異な空間にそっと居させてもらって、そこで延々とクソみたいな妄想に耽りまくり、自然を擬人化したり都合よく解釈したり、手前勝手に楽しんでいる。このような異質の歓びを山から数多与えてもらっていると深く自覚してはいるが、そんな山に対しては自分は何かお返しをしてきただろうか。と、ふと思う。

4年前に行った同じ栗駒山の「産女川」が、私の登山史上でもっともやりたいことが表現できた山行であった。以来、産女川以上に自分を表現できるような山行を、またいつかしたいと考え、腐るほどの山行計画を立てたが、4年経った今、多分そのような考えは無意味だと思うようになった。よりシンプルに、あの瞬間、あの自分が、産女川に行くことができて、本当によかったと実感することが大事であって、それ以外のことを考える必要はない、と。

牧歌的な表掛コースを歩き、向こうに栗駒山の山容が見えてきたら、ついつい感動してしまった。「一番好きな山は?」と聞かれても、いままで答えるべき山を持っていなかったが、たぶん栗駒山なのかもしれないなぁ・・と思い至った。ドゾウ沢で、崩壊した荒々しい様子に虚無感を覚えたり、ポコポコと湧き出る水に高揚したりした。そんなぐるぐるとした感情は、山頂直下の階段で標識がわずかに見えたとき、山から深い慈悲を与えられたような気がして、落ち着いた。山頂で残ったのは、栗駒山の自然に対する愛おしい気持ちだけ・・・。

たくさん登ってきたし、すべての山が好きだけど、湧水のように滾々とあふれる愛を感じるような山は初めてだ。栗駒山に、山に、与えてもらった数多の歓びのお返しがしたい。できるとしたら、山でゴミを拾う、とかそんな当たり前のことじゃなくて、一本一本のラインに思いを込めて登り、記録を残すことか。

 

次は紅葉の栗駒山に会いに来たいなぁ。でも人が多そうだからなぁ・・・。