3年ほど前に始めたテンカラ釣り。始めたといっても、まだ両手の指で数えられる程度しか経験していないが、いまだボウズだったことがないから、ひょっとして才能あるかも・・などと、初心者にありがちな自分に対する期待感にまだ溢れている、という初歩的な次元でやっている。使っている竿は宇崎日新のテンカラミニ270で、持手の上下にフックを紐で括りつけて釣糸をまとめられるよう、私の釣りの師匠が細工を施してくれたオリジナルのものだ。道具に愛着を持つという精神がまったく欠けている自分にとって、大事にしようと思える実に数少ない道具のひとつだ。
ところで、正直のところ、釣りはそれほどやろうと思っていない。なにか、違うというか、アンビバレントな複雑な感情があるのだ。いや、それがなにかは実は分かっている。釣りなどという安穏なことをやっている時間があるなら、ロープを出して沢を、壁を、そして山を、必死に、がんばって、登れ!と思っているのだ。そう、両者に対する価値判断の差異。すなわち、釣りと、今までやってきた登山とを対置し、釣りのほうを低く見ている自分が、自分のなかに屹然といるのだ。その自分は私が釣りをしようとするとき、常に私を監視している。彼は釣りが私にとって山からの逃げだと確信しているし、また、彼は釣りが私の登山を終わりに向かわせると、真剣に考えているのだ。
そんな価値観が偏り切ったものだと十分承知していて、それを自分でも若干持て余しつつも、テンカラ竿を振っているときはやけに無心になる。
自分から釣りにでかけることはほぼないので、たいていは師匠と一緒に、である。
そして、私の釣りの師匠はもともと渓流釣りから山の世界に入り、いつしか冬穂高やビッグウォールのアメリカンエイドなど激しい活動を行うようになり、歳月を経て、また釣りに戻ってきている。そんな彼のフィールドで自分も、アンビバレントな感情を抱きつつも、はっきりいって悪い気はしていなくて、要はそれなりに楽しんでいる。
幾度も訪れた神ノ川をまた、師匠と二人で会話もなく、ときどき目くばせでなんとなく意思疎通しながら、のんびりと釣り上がる。釣りの師であり、お山を登るとは何か教えてくれた恩師であり、沢山の印象的な山行を共にしたパートナーであり、歳の離れた飲み仲間であり、なにより、登山者である自分に未来を与えてくれた尊敬すべき唯一無二の友である、師匠と・・。
雷光のように思いが駆ける。
彼とは最後になるであろう丹沢という地元のお山で、他愛もなく、それでいて不可欠な、ただひとつの逍遥の交点に、今日、僕たちは奇跡的にいるのだ。なんという出会い。なんという人生の巡り合わせだろうか。
彼は新天地に旅立ち、僕はここに残る。
これは美しい友情の終わりであり、また始まりでもある。
川は流れ、流れて、永遠に止まらない。時の川は続いていく。いままでも、いまも、これからも。